- 1959年人間プロ 5/17NFC
- 監督/脚本:小林正樹
- 撮影:宮島義勇 美術:平高主計
- 出演:仲代達也/新玉三千代/佐田啓二
※写真は『第一部 純愛篇/第二部 激怒篇』
この映画で問われているのはなんだろうか?
危機存亡の時、国家はその成員に国家のために死ぬことを要求する。「死」はこの場合象徴的なものであって、死ぬとはあらゆる犠牲を払うことが要求されるということだ。
そのことの正当性はたぶんプラトンの著したソクラテスの対話篇でもっとも切実に追求されている。
死刑を国家から下されたソクラテスは脱獄の機会があったのに、その機会を見送り自ら死を選ぶ。ソクラテスは「国家」と対話することによってその決断に達する。
ソクラテスは基本的には国家を肯定している。
この映画の主人公は危機存亡の時にはその成員に死を要求する「国家」そのものに疑問を抱いている。
この映画に即するならば、主人公は「国家」という言葉を使わずに「軍隊」という言葉を使う。
主人公は軍隊のあり方に批判的だし、戦争そのものにも批判的だが、同時に優秀な兵士であり、戦闘の時は勇敢に戦う。
勇敢に戦うという実践において、彼はソクラテスと同様に国家を肯定している、そう僕は感じた。
彼の実践を追うならば、彼がやろうとしているのが個人と国家の共存であることが分かる。その共存を彼は国家が最も残酷で苛酷な形態を取った軍隊において目指そうとする。
だから彼は自分でも言うように「利口馬鹿」なのだ。
彼が生きる中で最も深く抱え込んでいる問題はもっと普遍化するならば、個人と組織は共存できるのかとうい問題となる。
それならば彼の抱え込んでいる問題は極めて現代的な問題となる。
組織、それ無しには現代社会はそもそも成り立たないのだが、その組織の中で人間は個人として生きることができるのか?
その問を彼は軍隊という最も個人と対立する組織で問うているのだ。
2000/05/17