2016/03/07

ひかりのまち


  • 1999年イギリス映画 9/4シネセゾン渋谷
  • 監督:マイケル・ウィンターボトム 脚本:ローレンス。コリアト
  • 撮影:ショーン・ボビット 音楽:マイケル・ナイマン
  • 出演:ジナ・マッキー/シャーリー・ヘンダースン/モリー・パーカー


 ざらついた映像。それは映画にドキュメンタリー的要素を与える。でもそれは改めて言うことのない基本の基本だ。そしてコマ落し撮影。これも基本的テクニックで改めて使う人はいない。いや、いなかった。
 それらの今さら使えば気恥ずかしさを感じてしまうテクニックが使われ始めたのは、香港映画、特にウォン・カーウァイの影響が大だろう。ベルナルド・ベルトルッチの『シャンドライの恋』のカメラ・ワークにも香港映画の影は濃厚に感じることができた。それは一言で言えば、カメラの遊びであり、そのカメラの遊戯性は映画に若々しさを与えていた。
 でもこの映画で僕が心を動かされたのはそのようなことではなく、そのカメラ・ワークにおいてロンドンという都市と香港という都市が共鳴しているということだった。

 マイケル・ウィンターボトム監督は都市に生きる人々それぞれに焦点を当てながら、都市というものが持っている姿を浮き彫りにする。それらの人々は一言で言えば少しずつその人なりの仕方で狂っている。奇妙な人々。
 都市とは他人の集合体であり、他人とは自己(私)との「通路」が無い者のことを言うならば、都市で生きる人々は孤独だ。その絶対的孤独の中で都会人たちは狂っていく。
 正気を保とうとするならば皮肉にも周りは人だらけの場所で都会人たちは出会いの「ゲーム」をしなければならなくなる。
 でも都会人たちは「ゲーム」に拠る出会いが虚構であることを充分に知っている。

 たぶん大切なのは、孤独を認めることなのだ。
 だからこの映画のクライマックスは深夜のバスの中で一人の女性が流す涙なのだ。ほとんど唐突に流れるその涙は、説得性を持っている。それは僕たちもまた都会で生きる者の孤独を知っているからだ。
 あの涙には、いまや手垢に塗れてしまった言葉だが、癒しがあった。
 そしてあの涙からしかなにも始まらないということも僕たちは理解できる。

2000/09/04