2016/03/04

エピデミック


  • 1987年デンマーク映画 5/6ユーロスペース
  • 監督:ラース・フォン・トリアー 脚本:ラース・フォン・トリアー/ニルス・ヴェアセル
  • 撮影:Henning Bendtsen
  • 出演:ラース・フォン・トリアー/ニルス・ヴェアセル/ウド・キアー


 ジークムント・フロイトは晩年人間を動かすものとして死の本能の存在を主張したが、それは余りにも思弁的で実証性に乏しいという理由から学説としては斥けられた。フロイトがその説を主張した背景には彼自身の二つの世界大戦の体験があるだろう。
 アレクサンドル・ソクーロフの「そして何もない」1982に関してミハイル・トロフィメンコフがこんな文章を書いている。

 「勝利はないが、勝利者はいる。それはエピローグで、カメラに微笑みかけながら意味ありげにスクリーンを横切る、皺だらけの老婆である。・・・・・。彼女は匿名どころでなく、その名は死なのである」
 そしてこう結論する。
 「死の本能が、幾世紀にも渡る非人間的な歴史のベクトルを戦場へと突き動かす」

 この映画でも戦争が核になっている。ウド・キアーがウド・キアー自身として語る戦争体験がそれだ。もちろんそれは虚構の体験だ。ウド・キアーは死を目前にして始めて母親が自分に語った話として戦争体験を語る。産院でイギリス軍の空撃を受けた母親は助かるために必死に頭を働かす。素手で穴を掘ってそこにまだ赤ん坊のウド・キアーを身体にぴったり付けて隠れる。母親の手は血で真っ赤になっているだろう。空撃が一旦止んで母親は外に出る。焼夷弾から身を守るため人々が首から上だけを出して池の中に入っている。見えている皮膚は熱で爛れている。ウド・キアーは静かに言う。彼らはナチではなかった。普通の人々だった。

 この映画の題名であるエピデミックは伝染病のことだ。伝染病は人為を越えたところから人々に死をもたらす。もしフロイトの説が正しく死の本能が存在しそれが無意識の領域で人間を突き動かすのならば、戦争もまた人為を越えたものだ。エピデミックは戦争の隠喩となる。そしてエピデミックは死の本能を指し示すものになる。この映画では映画の中で現実と虚構という二つの位相が並行して進む。その二つの位相の境界を突き破るものが催眠術だというのは象徴的ではないだろうか。催眠術によって無意識の世界が、死の本能が解き放たれ、虚構が現実に氾濫し現実を破壊する。

 ラスト・シーンというかエンド・ロールでの空撮は神の視点からのものだろう。神の目の下に広がる風景の中で死の本能が蔓延していく。

1997/05/06