2016/03/05

ハズバンズ


  • 1970年アメリカ映画 3/24シネ・アミューズ
  • 監督/脚本:ジョン・カサヴェテス
  • 撮影:ヴィクター・J・ケンバー 美術:レネ・ドリアック
  • 出演:ベン・ギャザラ/ピーター・フォーク/ジョン・カサヴェテス


 親友の突然の死。昨日のように今日があり、今日のように明日がある、そのように時が流れると思い込んでいた三人の男たちはその親友の死を通して死に直面する。彼らは自分たちの生において死の存在を忘れて生きてきたのだが、親友の死が死というとても重たいものを彼らに思い出させる。あらゆる生が結局死を迎えるのならば、生はどんな意味を持ちえるのだろうか?生とは無意味なもののことを言うのだ。

 彼ら三人は中年でそれぞれに成功した人間たちだ。彼らは社会的地位とそれに相応しい収入を得て、自己満足して生きてきた。逆に言うならば生というものにまったく盲目になって生きてきた。彼らは簡単な言葉を使うならば「立身出世」=「生きること」と信じて生きてきた。その「信仰」においては生そのものへの視線はまったく欠けている。その彼らに死が突然降りかかって来る。死は生へと強制的に彼らの視線を向けさせる。死は容赦なく生の無意味を宣告するのだから、彼らがこの先、生きようとするならば、生を無意味から救い出さなければならない。

 三人の男たちは葬式の後、第三者から見るならばまったく愚かしい行動へと向かう。彼らは生に直面せざるを得なくなり、気が狂うのだ。彼らはこれまでの生が死がもたらす虚無の前で崩壊するのを見る。彼らの一人が妻に暴力を振るうのは、そのありありとした崩壊が最も親しい存在である妻に見えないという苛立ち故なのだ。

 愚かしい行為を通して彼ら三人は一貫して生の意味を探っている。その探求の旅がセックスと暴力という二つの暗い暗い影を帯びるのは、多分当然のことなのだろう。もう少し突っ込めば、この映画の神話的構造が見えてくるかもしれない。図式的に説明するならば、図式的説明はどんな時にもなんの意味もないのだが、死はセックスと暴力よって浄化され、再び生は光を取り戻す。

 彼ら三人はまるで「子供のよう」だが、それは彼らが彼らが直面したものに誠実であろうとしているからなのだ。彼らの愚かしさは彼らの誠実さを意味する。

 この映画に解答はない。生の意味は問い続けられるべき問題であり、その探求に終わりはないからだ。

2000/03/24