- 1999年大映 3/9渋東シネタワー
- 監督:金子修介/樋口真嗣(特撮) 脚本:伊藤和典
- 撮影:戸澤潤一/村川聡(特撮) 音楽:大谷幸
- 出演:前田愛/中山忍/藤谷文子
ハリウッド版『ゴジラ』が、怪獣映画ではなく、巨大生物映画だったことに大いに失望した僕は、この正真正銘の怪獣映画にとても期待していた。そしてその期待は裏切られなかった。
リアルな怪獣映画という評がこの映画に対してなされているが、それは的を逸れている。
僕たちがこの映画に引き込まれるのは、この映画がリアルだからではない。
一言で言えば、僕たちがこの映画に引き込まれるのは、この映画が物語る力を持っているからだ。
古代から伝わる物語は今なお僕たちの心を動かす力を持っている。それはそれらの物語が僕たちが生きる世界が持つ畏るべき力に接した者たちの恐れを伝えているからなのだ。
『ガメラ3』は世界の畏るべき力を現代を舞台にして語り伝えている。もしそのことをリアルと呼ぶならば、なるほど『ガメラ3』はリアルな映画だ。
『ガメラ3』を成立させているのは、怪獣の存在をリアルに示すことではなく、物語の力を信じる心なのだ。
その物語を信じる心が、禍々しい神々を現代に蘇らせて、神話の世界を現出させる。
禍々しい神々たちは叫ぶ。「破壊せよ、破壊せよ」。
その声に僕たちの心が呼応するとき、物語が成立する。
禍々しい神々は嵐を呼び寄せる。
禍々しい神々は嵐の中心で、嵐の目の中で、雲が吹き払われ、星々が冴え冴えと光っている風の無い静寂の中で戦う。
嵐が作った水溜まりの水が鏡のようになって、神々の戦いを映す。
そのイメージはとても美しい。それはそのイメージにおいて神々と自然が一体となり、彼らが同じものであることを明らかにするからだ。自然(=世界)は破壊神と守護神という二つの神の姿を取り、戦っているのだ。
それをその美しく印象的なイメージは明らかにしている。
神々は何を巡って戦うのだろうか?人類?まさか。
ここで主題になっているのは、世界なのだ。世界は生み守るものであると同時に破壊するものなのだ。世界は破壊神と守護神という二つの神の姿を取りながら、戦う。それこそが世界なのだ。破壊の中で創造するものが世界なのだ。
『ガメラ3』は世界について物語った映画なのだ。
『ガメラ3』は新たな戦いが始まろうとするところで終わる。
それは当然だ。戦いこそが世界の本質なのだから。
静的な論理の中でなく、ダイナミックな弁証法の中に世界は存在している。
1999/03/09