2016/03/13

黒猫・白猫


  • 1998年ユーゴスラヴィア映画 10/26シャンテシネ2
  • 監督:エミール・クストリッツァ 脚本:ゴルダン・ミヒッチ
  • 撮影:ティエリー・アルボガスト 音楽:”ドクトル”・ネレ・カライリチ
  • 出演:バイラム・セヴェルジャン/フロリアン・アイディーニ/ザビット・メフメドフスキー


 『カサブランカ』のラスト・ショット。
 ボガードがレインズの方に「ルイ、美しい友情の始まりだな」と言う。背を向けて歩き去る二人をカメラはゆっくりと引いて、上方に動きながら捉える。

 このカメラの映画にゆっくりとしたテンポを与える手法は、シドニー・ルメットが指摘するように、今日ロマンチックなメロドラマでは紋切型の一つになっている。

 上記のようなことを記したのは映画に何度も挿入される『カサブランカ』のラスト・ショットがエミール・クストリッツァの僕たちに対する目配せのように感じられたからだ。

 この映画においてクストリッツァは物語るという映画の紋切型に完全に埋没してしまっているが、『カサブランカ』のラスト・ショットの提示によってそれは意識的なことなのだと僕たちに伝えているように僕には思えた。

 最初僕はエミール・クストリッツァは戦いにおいて完全に後退してしまっていると感じながら観ていた。

 エミール・クストリッツァともあろう人間が物語ることに退避していた。芸術における戦いとは言語化不可能なものを捉えることなのだが、物語るとは何度も書いているように因果関係の中に世界を溶かし込もうという行為であり、その行為の中で世界は分かりきったものに、つまり言語化済みのものに分解される。芸術家にとってこれほど楽なことはない。そこでは真の戦いは、言語化不可能なものに向かおうとする戦いは放棄されている。

 一部の人たちからは神のように思われているジャン=リュック・ゴダールを僕はほとんど評価しないが、ゴダールは常に理解不可能なものに果敢に向かって行く。この映画において分かり切ったものに逃避しているクストリッツァを観ながら、初めて僕はゴダールは「神」なのだと感じた。

 しかしエミール・クストリッツァは戦いを放棄したのではなかった。何度も途中で席を立ちそうにながら、この映画を観続けているうちに次第にクストリッツァのやろうとしていることが分かりかけてきた。

 彼は徹底的に物語ろうとしているのだ。物語ることを通して、世界をどんな破片も残さずに論理化してしまう。その絶対的に反芸術的行為の中で見えてくるものにじっとクストリッツァは目を凝らしているのだ。

 僕にはクストリッツァのその試みは失敗しているように感じられる。
 この映画には何も無い。

 でもこれは決して無気力な映画ではない。戦った映画なのだ。
 それだけでも評価できる。

1999/10/26